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こんにちは。
予告どおり、アスランとカガリがいちゃいちゃしています。
手を繋いで花を摘んだり、
繋いだ手を揺すって合図したり。
いくらいちゃいちゃしてても切なさが薫るのは、
それがアスランとカガリだからでしょう。
さて、以下は毎回恒例の筆者のヒトリゴトです。
ウズミはきっと、カガリに伝えたいことも
遺したいことも沢山あったのではないかと、
そうお考えの方は少なくないと思います。
そして、筆者もその一人です。
残されたカガリは、ウズミの声に耳を澄ませても
何も聴くことはできません。
きっとカガリも、もっと沢山
ウズミと話をしたかったことでしょう。
もうこの世にいないウズミの真実を知ることは出来ません。
たとえ、事実を知っても。
出来ることは、ウズミに想いを馳せることだけです。
ウズミの真実に一番近い位置にいるのはカガリです。
しかし、その真実にカガリを近づけたのは
アスランでした。
アスランも同様に、
亡くした父の声無き声に耳を傾け
真実に想いを馳せることがあるのでしょう。
だからこそ、アスランの言葉が特別な奥行きを持って
カガリに深く優しく響きます。
『きっと、ウズミ様は全てご存知だったんだ・・・。』
『殺すことも、出来たはずだ。』
『それでも、
カガリとキラを救って、
護って・・・。
カガリをお育てになった。』
『何故、ウズミ様がそうなさったのか、
カガリ、君が一番良く知っているだろう。』
ウズミの真実は、彼の亡き今、全てを明らかにすることは出来ません。
しかし、何故ウズミがキラとカガリを救い
カガリを育てたのか、
その理由については今後の物語に関係していきます。
(もちろん筆者の創作ですが。)
お読みくださる皆様それぞれに抱くウズミがあると思いますが、
“こんなのもアリかもなぁ”くらいの軽い気持ちで
お読みいただければと思います。
ようやくChapter 5の内、5-1~5-10までUPいたしました。
この5-1~5-10のepisodeに関して、今回はラクスについてコメントしたいと思います。
大きく分けると、
決して負に侵されない清らかさと、
戦争責任と、
政治的責任の3つの点についてです。
なお、最初にご了承いただきたいのですが、
以下に語る筆者の考えは、筆者の独断と偏見に満ちた個人的な妄想です。
そのため、万が一気分を害された場合は
大変申し訳ございませんが「寛大なお心でスルー」してくださいますよう
お願いいたします。
先ず、ラクスの清らかな強さについて。
普通、一番大切な人がChapter5のキラのような状態になったら、
心から笑顔でいることは出来ないと思います。
ラクスのように決して闇に屈すること無く
清らかな笑顔であり続けることは、
彼女の強さであると筆者は考えます。
また、「5-8 ラクスの告白」では、
ラクスは自らの戦争責任を告白しています。
「世界の平和を願い、
現実として行動し、
自らの力を全て、 注ぎ続けることができるカガリが、
羨ましかったのです。」
「わたくしは、
わたくしの姿で、
わたくしとして、
世界の平和のために現実的に働きかける、
ミーアさんが羨ましかったのです。」
筆者自身は、ラクスは人間臭い感情を持つキャラクターと捉えております。
心を構成する感情は、全て綺麗なままでは成り立たないと思います。
それはラクスであっても例外ではないとの考えがあります。
“羨ましい”という感情の言葉と共に、
ラクスには“沈黙の責任”を引き受けさせています。
戦争を治め、平和を切り開いたラクスに
戦争責任はないと言うロジックは、
正義と平和の根拠を勝利に置く点で
筆者は賛同できません。
何故ならば、そのロジックに従えば
デュランダル議長が勝利すればデスティニープランが是となるからです。
しかし、筆者の描くプラントはまさにそのロジックで
ラクスを妄信しています。
そこにラクスとキラの可視化され難い政治的ハードルがある、
そのような設定といたしました。
その点は、「5-3 孤独と孤立」の中でイザークやディアッカに語らせています。
『キラ・ヤマトとラクス・クラインは孤独ではない。
何故なら、2人は常に寄り添っているからな。
だが、2人は孤立しているだろう。
誰も、彼等と対等になろうとはしないからだ。』
プラントの国民は心からラクスとキラを愛し、
しかし同時に彼等をまるで神格化するように妄信する。
その精神構造にこそ戦争を引き起こす根本原因があり、
だから指導者がパトリックからデュランダルに代わり、
政策も平和構築の方法も変わったにも関わらず
戦争は繰り返された、
そのように仮定しました。
そしてそのコンテクストに従えば、こうも言えるのです。
例え、ラクスがプラントを治めても
プラントは再び戦争を起こす、と。
だからラクスの政治的責務とは
プラントの暴走が起きた時に抑える抑止力ではない、
それが筆者のスタンスです。
では、彼女の果たすべき政治的責任とは何か、
お察しの方もいらっしゃるかと思いますが、
今後もその点を丁寧に描けたらと思います。
但し、お読みになる方にご理解いただきたいのですが、
ラクスが議長に就き、プラントを導けば
世界に平和が訪れる、
そんなに世界平和は安易に実現するものではないのではないか、
筆者にはそのような考えがあります。
何故なら、
そう結論づけるなら
全知全能の人物の降臨を待つ他
私たちの生きる世界に平和が訪れないことを
意味すると思うからです。
だから、筆者のラクスは全知全能ではありませんし、
独立自治区ソフィアの独立に際しては政治的失策を犯しています。
しかし、
それでも強く迷わず生き抜くラクスの
“生きる美しさ”を描いていけたらと考えております。
と、筆者のヒトリゴト(と書いて、言い訳と読む)が長くなりました。
こんな滅茶苦茶で独りよがりな物語でございますが、
暇で暇でしょうがない時で構いませんので、
お読みいただければ幸いです。
最後までお読みくださりありがとうございました。
こんにちは。
前回の予告どおり、アスランとカガリが寄り添っています。
今回のお話は、筆者がどうしてもカガリに言わせたかった台詞が
いくつも詰まっています。
【1. あいしてる 】
『世界で一番好きな音・・・、
アスランの鼓動だ。』
アスランやカガリは「愛してる」の言葉を
最後の最後まで言わないのではないか、と思います。
(現実的に、言える関係性に無いことは別として。)
アスランとカガリの場合、
ありふれた言葉に想いが重なるのではないかと思い、
この台詞を書きました。
【2.カガリの強さ】
『それ以上に、
強いものなんてあるのか?』
『だから私は大丈夫だっ!。』
ラクスを引き合いに出しますと、
ラクスは個人(=私)の強さが光るキャラクターだと思います。
何かを成し遂げると決めれば、キラとラクスの2人きりでも
決して歩みを止めない強さを持っていると、筆者は考えます。
そのため、振り返った先には2つの足跡が強く残ると思います。
一方、カガリの強さに公(=みんな)が帯びると考えます。
(※ 日本語では公=お上や政治といったイメージもありますが、
公園の公の字のように、
“みんな”という人の集まりをイメージしていただければと思います。)
同じ理想を胸に燈した多くの人々と共に
夢を実現するために歩み続けると、筆者は考えます。
そのため、振り返った先には歩幅も大きさも異なる複数の足跡でいっぱいで、
カガリ自身の足跡がどれか分からない程かと。
共に歩む力こそ、カガリの強さだと思います。
そしてその力を下支えしているのは、人と人を繋ぐ才能です。
GANDUM SEEDでは、再会したキラとアスランをカガリが一瞬にして結んだように
カガリには人と人を繋ぐ力もあるのでしょう。
【3.宿命と使命】
『こうして生まれてきた私だからこそ、
すべき事があると思うんだ。』
カガリならば、
宿命を乗り越えた先に、使命を見出すだろうと
筆者は思います。
宿命とは、先に敷かれたもの=受動的なイメージがありますが、
使命とは、自ら選び引き受けたもの=未来を志向するイメージがあります。
カガリであれば、
宿命を抱きしめ、今の自分を受容し、
そして使命を胸に未来を見据えるだろうと。
カガリの言葉に、
アスランは改めてカガリの強さを見ます。
しかし、カガリが強くあれるのは
他でも無いアスランがそこにいるからです。
これも、アスランがカガリを護るひとつの形なのではないでしょうか。
降りかかる矢を剣で薙ぎ払うだけが、
哀しみ震える君を抱きしめることだけが、
護ることではないと、筆者は思います。
今回も筆者のヒトリゴト(と書いて妄想と読む)が長くなりました。
次回も、アスランとカガリは健全に(?)いちゃいちゃしておりますので、
お時間がございましたら、そんな2人を見守っていただければと思います。
こんにちは。
またしても、1週間ぶりの更新となりました。
やっと、カガリとアスランの真実が重なり
ひとつになりました。
そしてまたしても、
以下は筆者のヒトリゴト
(と書いて何と読むかはご存知のことと思いますが)です。
『・・・アスランと、
共に、生きていきたい・・・。』
これはカガリがアスランに告げた最後の真実です。
この真実をカガリはアスランの耳元で告げます。
アスランにだけ届くように。
何故なら、この真実とは、
今この世界で真実とすることを出来ないと
カガリが知っていたからです。
「8-10 瞼の裏、視線の先」のキラの台詞で
『きっとアスランとカガリの方が難しいんだ。』とありましたが、
キラの真実と比して
カガリの真実とは大変複雑で重層的です。
キラの真実はラクスを愛し、ラクスと共に生きることです。
極論かもしれませんが、キラは真実としてラクスだけを選ぶことができます。
(でも、キラが“他の人はどうでもいい”と思っている訳ではありません!!)
しかし、カガリの場合は、キラのようにシンプルにはいかないでしょう。
アスランを愛していること、共に生きることは真実です。
しかし、
それを真実として、今の世界で実現することが現実的に出来ないだけではなく、
“アスランだけを真実として選ぶこと”を、カガリ自身がしないのではないかと
筆者は考えます。
カガリには、「みんなと共に生きたい」という、
大切な人たちと共に抱いた真実も、
真実として選びたいからです。
ラクスを愛し、ラクスと共に生きたいというキラの真実は
ラクスの受容によって成り立ちますが、
カガリの真実の場合、アスランだけが受容しても成り立ちません。
(この論理に従えば、大切な人たちみんなとの相互受容を要しますので。)
しかし、アスランの受容が無かったら、
カガリは “カガリとしてあること”=“生きていくこと” が、
大変困難となるでしょう。
顔を上げて前を向いて
夢を叶える為に走り続けることが、
大変難しくなるでしょう。
何故なら、
カガリはアスランを愛しているからです。
だから、「8-10 瞼の裏、視線の先」の中で
キラとラクスは次のような台詞を言う訳です。
『きっとアスランとカガリの方が難しいんだ。』
『ですが、アスランでなくてはなりません。』
キラとラクスは、そのことを分かっていたんですね。
さて、次回以降しばらく
アスランとカガリがいちゃいちゃしています。
お時間がございましたら、ご覧いただければ幸いです。
Chapter3の一部が正常にアップロードされていなかったため
お見苦しい点があったかと思います。
大変申し訳ございませんでした。
他のepisodeにおいても乱れ等がある場合がございます。
一つ一つ修正し、より見やすいサイトにできるよう努めてまいりますので、
今後ともよろしくお願いいたします。
さて、毎回恒例となりました(?)
筆者のヒトリゴト(と書いて戯言とも読む)ですが、
Chapter3の「3-26 時が止まる」、「3-27 hak」、
「3-28 おやすみ」、「3-29 暁の世界」の
アスランとカガリのやり取りは
とても楽しく執筆したなぁと、
当時を懐かしく思いました。
ことごとくアスランのタイミングを外して崩して、心をほぐしていく、
そんなことができるのはカガリだけです。
自分を後回しにして護り抜く、
不器用な程誠実なアスランだからこそ
カガリが必要なのだと思います。
カガリは、
他者の”ありのままを引き出す”天才だと思います。
それならばラクスは、
自らが”ありのままでいられる”天才ではないでしょうか。
この2人の才能は、ある意味、
自己と他者の関係性における最も基礎的かつ重要なものであり、
だからこそ世界の平和を実現するために2人の力が必要なのかなと
筆者は考えております。
国際政治についても、個人的に興味を持っておりますので
丁寧に描いていけたらと思います。