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soranokizunaのカケラたちや筆者のひとりごとを さらさらと ゆらゆらと
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こんばんは、筆者です。

仕事を終えて帰宅をし、ご飯を食べたら
サンデル教授の本む日々です。

第3章は「子どもを設計する親」についてのエピソードでした。

子どもは親を選べず、
親も子どもを選べない。
それでも親は子どもに無条件の愛情を注ぎ
子どもは愛情につつまれて成長していきます。

人は、授かった子どもを無条件に受容する力があります。
それは同時に、偶然によって予期せぬものが現われたとしても
それをありのままに受け入れる力が
人間には備わっていることを示しています。

サンデル教授はウィリアム・F・メイの次の言葉を引用し、その点について述べています。

子どもを贈られもの(gift)として理解するということは、子どもをそのあるがままに受け止めるということであり、われわれによる設計の対象、意思の産物、野心のための道具として受け入れることではない。・・・子どもの親であることは・・・『招かれざるものへの寛大さ』を教えてくれるのである。
(マイケル・J・サンデル『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』P49)


しかし、親が自分の望むように子どもを設計したとしたら・・・?
幼い頃から家庭教師をつけ、特殊なサプリメントを飲み、最新鋭の施設へ通い・・・
もしくは、親が望むような遺伝子を持つ精子や卵子を購入し、子どもをつくったとしたら・・・

そこには、子どもの自由に開かれた未来を狭める問題だけではなく、
もっと根本的な問題があるとサンデル教授は指摘します。
問題は、設計をおこなう親の傲慢さ、生命の神秘を支配しようとする親の衝動の中にある、と。
(引用、同上p51)
さらに、子どもを設計することで、社会は『招かれざるものへの寛容さ』
(=ありのままに受け入れることのできる心の広さ)が失われ、
設計外のものは全て排除するようになってしまう、と。

筆者はこの内容を読んで、ナチュラルを排除しようとするコーディネーターの姿や
婚姻統制やデスティニープランなど、制御と支配の政策を打ち出す姿を思い浮かべました。
SEED(特に無印かな)の中のコーディネーターには、
ありのままに受け入れる心が欠けていたのではないかと、今更ながらに思います。
(だからこそスローリーの中で、
あっさりアスランを受け入れてしまったカガリが光り、
全てを受け入れるラクスが光っていたかな、と。)

ありのままを受け入れる心が欠けていた理由は、
コーディネーターは自らの世界を全て設計したからこそ、
予期せぬもの(=招かれざるもの)が発生すると排除せずにはいられなかったのではないか、と。

そう考えると、遺伝子操作に対し私たちが抱く心の引っかかりの理由が見えてきます。
自然を当たり前に受け入れる私たちには、
遺伝子を操作することは
自然を支配し、生命の神秘さえも創造しようとするように
見えてしまうからではないでしょうか。


視点をもっと身近におろせば、
より良くなりたいと願いことは当たり前の感情で、
子どもの力を伸ばしてあげたいと願うのは、当たり前の親心です。

たとえば、
丈夫な体に育ってほしいから食材に気を配る、
音楽が好きな子だからピアノを習わせる、
運動が好きだからスポーツクラブに入れる、
将来困らないように英会話を習わせる…など。

それは日常にあふれた、ありふれた光景で、
そこには確かに愛情があります。

しかし、それが暴走し、行き過ぎてしまった感情は
実はコーディネーター創造につながっているのではないかと考えさせられました。


筆者の物語では、これからアスランとカガリに
ウィル(=子ども)を通して未来について考えさせる予定です。

子どもの幸せを願い出来る限りのことをすることと、
子どもを設計することは、
本当は紙一重よりもずっと境界線が見えないものなのではないかと、筆者は思いました。

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こんにちは、筆者です。

感性が餓えている・・・と漏らしたのはほんの数日前ですが、
今は感性がビンビンです(笑。

実は、待ちに待ったサンデル教授の新刊を手に入れることができたからです!


著者:マイケル・J・サンデル
『完全な人間を目指さなくてもよい理由
遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』
ナカニシヤ出版 

先日ブログにも書きましたが、
今年春にNHKで「ハーバード大学白熱講義」という番組がありました。
ハーバード大学で最も人気の講義はマイケル・J・サンデル教授による
「JUSTICE」という政治哲学の講義だそうで、それをNHKが独占放送したものです。
もう、講義の名前からして筆者のツボです(笑。

内容は、サンデル教授が正義の見えない現代において
「正義とは何か」、「公正であることはどいうことか」を問いかけていくもので、
大変考えさせられます。

で、そのサンデル教授の新刊が発売になりました。
内容は遺伝子操作やクローン、身体増強等の切り口から
生命倫理を論じているようです。

って、この本はGUNDAM SEEDの本じゃないのっ!!

なーんて、筆者一人で本屋で無言の絶叫をあげました(笑。
まだ第1章の冒頭部分までしか読んでいませんが、
たとえば以下のことは「正義」に反するのでしょうか。

・耳の聞こえないカップルが耳の聞こえない子どもがほしいので
 そのような遺伝子を持つ精子、卵子を売買すること
・容姿、スタイルが良く、学歴の高い人物の
 精子、卵子を売買すること
・死んだ愛猫の遺伝子でクローンを作り出すサービス

これらによって、満足や幸せを感じる人は確かに存在するのでしょう。
しかし、これらが「正義」だと言い切ることが出来ないのは
筆者だけではないはずです。

それは、SEEDの世界でナチュラルがコーディネーター対し
差別や偏見、そこまでいかなくとも煮え切らないもやもやとした感情を抱いていたことに
通じるのではないかと思います。

この本がどこまでSEEDの世界観に重なるかはわかりませんが
わくわくしながら読み進めています。

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こんばんは、筆者です。

感性が餓えています。

毎日の生活の中で
嬉しかったり楽しかったり、どきどきしたりスカッとしたりしています、
ちゃんと。

でも最近、
何故だか感性が鈍くなっている気がしてなりませんでした。

仕事が忙しくても、毎日自宅のパソコンを開いては
一行だけでも執筆しています。
しかし筆の進みが大変遅く、頭痛の一歩手前のように頭が重くなるような感覚さえ覚えます。

これまでは、感情のままに言葉がわいてきたのに、
今はどんなにイメージしても言葉に惹かれない。

どうしたのだろう、と考えて行き着いた答えは、
感性が餓えている、ということ。

現実の生活の中で充実していても
非現実の領域、
つまり想像力をかきたてるような、感性に触れるような経験が
不足していたように思います。

読書はいつも新書ですし、
映画やドラマ、アニメも見ていませんでした。

英語で感動するって「touchied」と表現すると、中学生の頃習いました。
心に「触れる(=touch)」という意味なのでしょうが、
ある意味本質をついているように思います。
人はものには直に触れることが出来るけど、
心には想像力が無ければ触れることができません。
だから、感動するためには想像力が必要なのではないでしょうか。

こんな風にひねくれて考えているから
感性が餓えてしまうのかもしれませんが、
今後は折を見て、感性をくすぐるような何かを求めていきたいと思います。

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福田監督の「別れてないって」発言で
ようやくアスランとカガリの未来が見えたと思ったのに、
なぜでしょう、今は胸の痛みばかりが募っていきます。

アスランとカガリが幸せを選べる未来は、
すべての人が幸せを選べる世界であると
筆者は思います。

SEEDの世界観という観点からも
2人には幸せになってほしい。

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筆者、ツイッターをやったことが無いのですが、
なんとなく眺めています。

その中で監督のつぶやきで共感する言葉がありました。

(お話の流れは「正義」について・・・)

『日本のアニメや漫画では、もう正義なんて描かないし、
(昔はあった)、あっても「俺が正義だ!」なんて言って、
力を行使するトンデモナイモノばかりだ。
子どもに見せるアニメだからこそ、何が「正義」なのかしっかりと描くべきだと思う。』

『月光仮面の昔、ヒーローは「正義の味方」だった。
正義を持って生きている人たちを守る人だった。
その守る手段が「力」だったから、ヒーローは正義じゃない。
あくまで「味方」。
「力」が正義になっちゃったら、それは弱者を迫害するモノになってしまう。
アニメはもう一度「正義」を考える必要があるな。』

この言葉を読んで、筆者が思い出すのは
残念ながらDESTINYのキラとラクスの描かれ方でした。
DESYINYでは、始まりから終わりまで、正義も力(=ヒーロー)も
キラとラクスだけが持っていたと
感じてしまった視聴者も多いと思います。

まるで「キラとラクスの勧善懲悪だ」と、そう言われても仕方ないような
誤解を招きそうな設定や描写が多かったと思います。
選択を間違ったカガリとアスランを正し、
過ちを繰り返す世界を止めたのだと。

しかし、筆者個人としては、DESTINYの中で正義を司るのは
アスランとカガリであるべきだったと思います。
なぜなら、正義を個人や限られたコミュニティだけで抱けば、
それは独善的になる蓋然性があるからです。
たとえば、独裁者のように。

そうではなく、正義とは、沢山の他者の感情や願いを聴き、
他者と共に世界を見て、
心に抱くものだと思うからです。
そして、己の正義と他者の正義を寄り合わせていくことで、
正義は公正なものになるのではないでしょうか。

DESTINYでカガリやアスランは、
それぞれオーブとプラント(ザフト)で沢山の声を聞き、世界を見てきました。
言うなれば、パブリックな領域で生きてきました。
その中で己の正義を見つけ、貫くことは大変困難ですが、
最終的に抱いた正義には、沢山の人の声と願いが反映されているはずです。
だから、共に正義を分かち合い、世界の人々と共に実現することができます。
ゆえに、2人は正義を司るにふさわしい。

一方のキラとラクスは、孤児院という癒しの場所で愛をはぐくんできました。
言うなれば、きわめて限定された他者しか存在しない
プライベートな領域で生きてきました。
その中で己の正義を見つけ、貫くことに、何の障害もありません。
なぜなら、意見がぶつかることは無いため、己の正義が脅かされることも無いからです。
そのため正義を見つければ、安全な空間でじっくりと成熟させることができる一方で、
きわめて限定された他者の声や願いだけしか反映できず
独善的になってしまう危険性がある訳です。
(あくまで可能性の話で、キラとラクスがそうだった~という話ではありませんよ。)

個人や限定されたコミュニティだけが抱く正義は、特定の人々だけを護り、

みんなと共に抱く正義は、世界を護ります。
だから、プラントの正義も、ブルーコスモスの正義も、
争いを呼び世界を護れない。
しかし、アスラン(=プラント、コーディネーター)とカガリ(=オーブ、ナチュラル)の正義には
公正さが帯びるはず・・・なのですが
その点がDESTINYでは丁寧に描写されなかったように思います。
だからこそ、(意図せずなのかな?)、
キラとラクスの正義が目立ってしまったのではないかと。

で、キラとラクスの正義が全面に出されれば、
プライベートな領域で生成された正義が
キラのスーパーコーディネータが持つ力によって振りかざされたように、
プラント、地球側から見えてしまうのではないかと、筆者は思います。
(というか、そう見えた視聴者もいるのではないかと、不安です。)

「自由がほしい」と、覚悟を持って言い放ったキラに、
子どもを望めず、未来を失ったコーディネーターがどれだけ共感できるでしょう。
繰り返される争いと、閉ざされた未来を前に
デスティニープランにすがるしかなかったコーディネーターに、
ラクスはどれだけ共感できるでしょう。
DESTINYを見る限り、疑問を感じずにはいられません。
というか、なんでもっとキラとラクスを効果的に描けなかったのだろうと、
残念な気持ちでいっぱいです。

そして何より、アスランとカガリの正義も、想いも、
どうしてもっと丁寧に描けなかったのか!!!
残念という言葉では終われません。
 


さてさて、どうして福田監督が正義についてつぶやいていたのかというと、
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「正義」という講義がきっかけです。
NHKで今春3か月位にわたって放映されたもので、
「正義とは何か」、「公正であることはどいうことか」、大変考えさせられる内容です。

正義が見えない時代です。
正義が何かわからないから、正義の指標を人々は探しています。
「誰が正義に導いてくれるのか。」と。
その姿はまるで、ヒトラーを始め独裁者を盲信した戦中の人々の姿と重なります。
そして、デスティニープランを盲信したプラントにも、
コーディネーターの殲滅で世界の浄化を図るブルーコスモスにも。

サンデル教授は「これが正義だ!」と教えてくれる訳ではありません。
むしろ、沢山の人々と共に正義をかんがえよう、そう呼びかけてくれます。
国や文化や人種、思想、考え方、感情、
全てが異なる人々の声を聴く姿に、
筆者はアスランとカガリをの姿を思いました。

筆者はリアルタイムで録画しながら視聴し、何度も繰り返し見て
サンデル教授の本も数回読み返しています(笑。
【著書】
マイケル・サンデル(鬼澤忍=訳)
『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』
早川書房

とても興味深いので、皆様も機会がございましたら是非手にとってみてください。

長くなりましたが、ここまでお読みくださってありがとうございました。

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