忍者ブログ
soranokizunaのカケラたちや筆者のひとりごとを さらさらと ゆらゆらと
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


筆者、ツイッターをやったことが無いのですが、
なんとなく眺めています。

その中で監督のつぶやきで共感する言葉がありました。

(お話の流れは「正義」について・・・)

『日本のアニメや漫画では、もう正義なんて描かないし、
(昔はあった)、あっても「俺が正義だ!」なんて言って、
力を行使するトンデモナイモノばかりだ。
子どもに見せるアニメだからこそ、何が「正義」なのかしっかりと描くべきだと思う。』

『月光仮面の昔、ヒーローは「正義の味方」だった。
正義を持って生きている人たちを守る人だった。
その守る手段が「力」だったから、ヒーローは正義じゃない。
あくまで「味方」。
「力」が正義になっちゃったら、それは弱者を迫害するモノになってしまう。
アニメはもう一度「正義」を考える必要があるな。』

この言葉を読んで、筆者が思い出すのは
残念ながらDESTINYのキラとラクスの描かれ方でした。
DESYINYでは、始まりから終わりまで、正義も力(=ヒーロー)も
キラとラクスだけが持っていたと
感じてしまった視聴者も多いと思います。

まるで「キラとラクスの勧善懲悪だ」と、そう言われても仕方ないような
誤解を招きそうな設定や描写が多かったと思います。
選択を間違ったカガリとアスランを正し、
過ちを繰り返す世界を止めたのだと。

しかし、筆者個人としては、DESTINYの中で正義を司るのは
アスランとカガリであるべきだったと思います。
なぜなら、正義を個人や限られたコミュニティだけで抱けば、
それは独善的になる蓋然性があるからです。
たとえば、独裁者のように。

そうではなく、正義とは、沢山の他者の感情や願いを聴き、
他者と共に世界を見て、
心に抱くものだと思うからです。
そして、己の正義と他者の正義を寄り合わせていくことで、
正義は公正なものになるのではないでしょうか。

DESTINYでカガリやアスランは、
それぞれオーブとプラント(ザフト)で沢山の声を聞き、世界を見てきました。
言うなれば、パブリックな領域で生きてきました。
その中で己の正義を見つけ、貫くことは大変困難ですが、
最終的に抱いた正義には、沢山の人の声と願いが反映されているはずです。
だから、共に正義を分かち合い、世界の人々と共に実現することができます。
ゆえに、2人は正義を司るにふさわしい。

一方のキラとラクスは、孤児院という癒しの場所で愛をはぐくんできました。
言うなれば、きわめて限定された他者しか存在しない
プライベートな領域で生きてきました。
その中で己の正義を見つけ、貫くことに、何の障害もありません。
なぜなら、意見がぶつかることは無いため、己の正義が脅かされることも無いからです。
そのため正義を見つければ、安全な空間でじっくりと成熟させることができる一方で、
きわめて限定された他者の声や願いだけしか反映できず
独善的になってしまう危険性がある訳です。
(あくまで可能性の話で、キラとラクスがそうだった~という話ではありませんよ。)

個人や限定されたコミュニティだけが抱く正義は、特定の人々だけを護り、

みんなと共に抱く正義は、世界を護ります。
だから、プラントの正義も、ブルーコスモスの正義も、
争いを呼び世界を護れない。
しかし、アスラン(=プラント、コーディネーター)とカガリ(=オーブ、ナチュラル)の正義には
公正さが帯びるはず・・・なのですが
その点がDESTINYでは丁寧に描写されなかったように思います。
だからこそ、(意図せずなのかな?)、
キラとラクスの正義が目立ってしまったのではないかと。

で、キラとラクスの正義が全面に出されれば、
プライベートな領域で生成された正義が
キラのスーパーコーディネータが持つ力によって振りかざされたように、
プラント、地球側から見えてしまうのではないかと、筆者は思います。
(というか、そう見えた視聴者もいるのではないかと、不安です。)

「自由がほしい」と、覚悟を持って言い放ったキラに、
子どもを望めず、未来を失ったコーディネーターがどれだけ共感できるでしょう。
繰り返される争いと、閉ざされた未来を前に
デスティニープランにすがるしかなかったコーディネーターに、
ラクスはどれだけ共感できるでしょう。
DESTINYを見る限り、疑問を感じずにはいられません。
というか、なんでもっとキラとラクスを効果的に描けなかったのだろうと、
残念な気持ちでいっぱいです。

そして何より、アスランとカガリの正義も、想いも、
どうしてもっと丁寧に描けなかったのか!!!
残念という言葉では終われません。
 


さてさて、どうして福田監督が正義についてつぶやいていたのかというと、
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「正義」という講義がきっかけです。
NHKで今春3か月位にわたって放映されたもので、
「正義とは何か」、「公正であることはどいうことか」、大変考えさせられる内容です。

正義が見えない時代です。
正義が何かわからないから、正義の指標を人々は探しています。
「誰が正義に導いてくれるのか。」と。
その姿はまるで、ヒトラーを始め独裁者を盲信した戦中の人々の姿と重なります。
そして、デスティニープランを盲信したプラントにも、
コーディネーターの殲滅で世界の浄化を図るブルーコスモスにも。

サンデル教授は「これが正義だ!」と教えてくれる訳ではありません。
むしろ、沢山の人々と共に正義をかんがえよう、そう呼びかけてくれます。
国や文化や人種、思想、考え方、感情、
全てが異なる人々の声を聴く姿に、
筆者はアスランとカガリをの姿を思いました。

筆者はリアルタイムで録画しながら視聴し、何度も繰り返し見て
サンデル教授の本も数回読み返しています(笑。
【著書】
マイケル・サンデル(鬼澤忍=訳)
『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』
早川書房

とても興味深いので、皆様も機会がございましたら是非手にとってみてください。

長くなりましたが、ここまでお読みくださってありがとうございました。

拍手[10回]

PR

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック