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あなたに恋した時から聞こえる
雫の音。
ずっと続くそれは、
時にあたたかく、
時に刺さるように鋭く、
歌うように軽く、
審判を下すように重く、
凍てつく程冷たく、
でも、いつだって愛おしい
色とりどりの音色たち──
きっと、雫の音が絶える事は無いのだろう、
この恋は心の中でずっと息づいていくから。
それは、変えられないから。
だから、
終わりにしよう。
この世界で恋をするのを
終わりにしよう。
心の中に閉じ込めた全部を、
ずっと大切にして生きていくから。
雫の音 ー shizuku no ne ー 22
雫の音。
ずっと続くそれは、
時にあたたかく、
時に刺さるように鋭く、
歌うように軽く、
審判を下すように重く、
凍てつく程冷たく、
でも、いつだって愛おしい
色とりどりの音色たち──
きっと、雫の音が絶える事は無いのだろう、
この恋は心の中でずっと息づいていくから。
それは、変えられないから。
だから、
終わりにしよう。
この世界で恋をするのを
終わりにしよう。
心の中に閉じ込めた全部を、
ずっと大切にして生きていくから。
雫の音 ー shizuku no ne ー 22
土曜日。
抜けるような青空に透明な朝日が降り注ぐ。
冬の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるような朝の筈なのに、
カガリは朝食を取る気にもならず、時間はだいぶ早いが今日の準備を始めた。
このまま家に居れば胸が詰まって動けなくなりそうだった。
鏡の前でメイクをチェックして、カガリは無意識にせり上がるため息を飲み込んだ。
自分で決めた道を最後まで歩き続ける、
今日が最初の1歩なのだから
ため息なんてついている場合ではない。
フレイからのアドバイスの通り、
アイシャドウはベージュをベースにほんのりとピンクを入れ、
チークはほんわりと丸く、ルージュは王道のピンクベージュ。
ここでフレイであればネイルも抜かりないのだろうがカガリは整えるだけに留めた。
アクセサリーは一粒パールの控えめなネックレスのみ。
白いワンピースを着た自分を見て、
──まるで白装束みたいだ。
と思ってしまった自分に苦笑する。
コートを片手に玄関で華奢なハイヒールに足を入れる。
12月の空気に冷えたパンプスが、ストッキング越しに伝わって鳥肌がたった。
ドアに鍵をかけながら、
あとオーブに居られる時間を数えた時だった。
隣のドアが開き、カガリは諦めていた現実をもう一度突きつけられた。
アスランの部屋のドアからラクスが出てきたのだ。
ラクスの歌うように弾んだ声から、
彼女の幸せが色づいて聞こえてくる。
───朝までずっと一緒にいたんだ…。
2人の恋は結ばれたのだろう、
“おめでとう。”と、カガリは唇に声にならない言葉をのせた。
すると、桜色の髪をゆらしてラクスが振り向いた。
「まぁ、カガリさんではありませんか!」
まるで天使が舞い降りるように軽やかに、
ラクスはカガリに近づいて両手を包んだ。
その声に反応するように、ドアからアスランが顔を出した。
部屋着に寝癖のついた髪、
気を許したアスランの姿に2人の親密さを見た気がして
カガリの胸を痛みが過ぎる。
「今日はお出かけですの?
とてもステキなワンピースですわっ。」
ラクスの無垢な興奮が伝わってきて、思わずカガリは微笑んだ。
「お昼に大切なお食事会があって。
でも落ち着かなくて、早めに家を出た所なんだ。」
「そうでしたの。
ほら、アスランも何かおっしゃって下さいなっ!
カガリさん、とても綺麗ですわ、
まるで花嫁さんのように。」
ラクスの何気ないフレーズにカガリは肩を震わせた。
アスランに視線を向ければ驚いた瞳を向けたまま黙っている。
途端に羞恥を覚えたカガリはラクスの腕を引いた。
「いいよ、ラクスっ!
私、あんまりこんな服装しないから、
コメント求められてもアスラン困るだけだしさ。」
と、カガリが笑って見せれば
ラクスは鋭い視線をアスランに突き刺した。
ラクスの以外な一面を見て、カガリは驚きつつも親しみを覚える。
「あ…、えっと、
きれい、だと思う。」
何とか絞り出されたアスランの言葉に、
カガリはラクスと顔を合わせて笑った。
「なんて美味しいサラダでしょう!」
ラクスはうっとりと両頬を包んだ。
マンション前に車を待たせていたラクスから朝食に誘われて、
世界的に有名な歌姫と来店して騒ぎにならない店として最初に老舗ホテルが浮かんだが、
そういった店は行き慣れているだろうからと
カガリは少し足を伸ばしてこの店を選んだ。
湖に続く小川の遊歩道に面したカフェは焼きたてパンと農家直送野菜が自慢の店で、
モーニングという事もあり店内はゆったりとした空気で満たされていた。
「よかった、気に入ってもらえて。
ここはお野菜はもちろん卵も新鮮で!
パンも美味しくて、ついついおかわりしちゃうんだよな。」
と、カガリが熱く語ればラクスは鈴の音のような笑みをこぼした。
春の陽射しにようにキラキラとした笑顔に、カガリは目を細める。
高校3年生の文化祭で会ったあの日のラクスは笑顔の奥に何処か儚さが感じられたが、
今目の前にしているラクスからはしなやかな強さと、光の花束のような幸せが見えるようだ。
この10年間でラクスが成し遂げた事、そして迎えた今手に入れた幸せがラクスの微笑みに表れている。
「ラクス、幸せそうだな。」
カガリの素直な言葉に、
ラクスは花開くように微笑みを浮かべた。
「はい、とても。
とても幸せです。
こうして、オーブに戻って来られたのですから。」
瞳にヨーロッパを映しているのだろうか、眼差しに時の流れを感じる。
キラの話では、ラクスは音楽家になるまではオーブに帰らないとの覚悟でパリへ旅立ったという。
夢を実現して家族と大切な人達が待つオーブへ戻ってきた感慨はどれ程のものだろう。
そして、彼女には愛する人との幸せな未来が続いていく。
「そして、今日、
わたくしは約束を果たしに行きます。
ずっと、待ってくれたあの方のために、
そして、わたくしのために。
だから幸せなのです。」
澄んだ泉のような瞳に強い意志が煌めいた。
「そっか、大切な約束なんだな。」
ラクスの言う“あの方”とはアスランの事なのだろう、
2人だけの約束を果たして、きっと未来へ歩みだすーー
今日はそんな日なんだ。
ーー私と同じ、始まりの日…か。
「でもこうして今日迎えられたのも、カガリさんのおかげです。」
「え?」
全く身に覚えの無いカガリは、思わずフォークを皿に置いた。
「わたくしが高校生の時、大切な弟を亡くしました。」
「ニコルくん…だろ。」
控えめなカガリの声に、ラクスはゆったりと頷いた。
「そうです。
ニコルを亡くして、わたくしはずっと悲しみに囚われておりました。
ですが、そんなわたくしの側にずっとアスランが居てくれました。
だからわたくしはもう一度、わたくしとして生きることが出来ました。」
文化祭で見た2人の姿が、風が吹き抜ける速さで思い起こされる。
ラクスを守ると、意志の熱を帯びたアスランの眼差しと、
寄り添うように見上げるラクス。
恋に破れて、抱えきれない想いも悲しみも後悔も全部、
ラクスとアスランの幸せに繋がっていたーー
ーーそれなら、良かった。
ーーこの恋は叶わなくて、良かったんだ。
今も胸を刺す痛み、
その深さの分だけカガリの微笑みは優しくなる。
「アスランを支えて下さったのはカガリさんだと聞きました。
本当に、ありがとうございました。」
そう言ってラクスは頭を下げ、桜色の髪が肩から滑り落ちサラサラと風がそよぐような音がした。
カガリは慌ててラクスの肩に手を置くと、
「私なんか何の力にもなってないって!
だから、顔を上げてくれ。」
するとラクスはカガリの手を包んだ。
「いいえ、カガリさんが悲しみの世界を変えてくださったのです。
アスランを、わたくしを、そしてわたくしの家族を救ってくださいました。
本当にありがとうございました。」
そんな力は自分には無かった筈だけど、
向けられた真心をカガリは受け取ることにした。
それが今できる精一杯の誠意だと思った。
出来立てのキッシュが運ばれてきて、“わぁっ。”と2人は声を上げた。
今朝はあれ程食欲が無かったのに、
ラクスと一緒にいるとフォークが進んでしまうのは何故だろう。
「良かったですわ。
今朝のカガリさん、少し元気が無いように見えましたので。」
と、控えめに睫の影を落とすラクスに、カガリは胸を締め付けられる。
ラクスは何て人の心に耳を傾ける人なのだろうと。
そして同時に思うのだ、
こんな人がアスランのパートナーで良かったと、
優しすぎるのに不器用な彼には
ラクスのような人が必要だから…。
身勝手に広がる胸の痛みを、“良かった。”という真実で飲み込む。
その拍子に、焼けるような痛みが喉を詰まらせた。
「ありがとう、でも、大丈夫だから。
ラクスと一緒に朝食がとれて良かったよ、
これから頑張らなきゃいけないから!」
と、ラクスの心配が晴れるよう笑ってみせると、
“気になっていたのですけれど…。”そう前置いてラクスは切り出した。
「今日はどういったお食事会ですの?」
遅かれ早かれ明らかになる事だからと、カガリは正直に話した。
「お見合いをするんだ、お父様の会社のご縁で。」
自分で決めた道、
その第1歩の今日。
これから踏み出す覚悟を持って家を出た。
なのに、
「本当にいいのですか。」
食後のハーブティーの湯気が揺れた。
「これが1番良いと、思ったんだ。」
「カガリさんには、
想う人はいらっしゃらないのですか。」
春のうららかな空のような瞳は偽りを許さない。
向けられた真っ直ぐな眼差しにカガリは応えた。
「いるよ、ずっと好きな人が。」
──アスランの事が、好き。
「でも、叶っちゃいけない恋なんだ。」
──これからも、ずっと。
「だから──」
──どうしても消えない恋、
それを心に閉じこめて、
新しい道へ進むんだ。
「お相手に、想いは伝えられたのですか。」
カガリは驚きに瞳を開く。
想いを伝えるなんて、もう一生無いと思っていたからだ。
「伝えるも何も…。
その人には心に決めた人がいて、結ばれて幸せになっているから。
今更私が告白したところで、迷惑かけちゃうだけだろ。」
シンは誰も傷つかないと言っていたが、どうしてもカガリには想いを伝える気にはなれなかった。
例え傷つかなかくても不要な心の波を立ててしまったら…、そう考えるとーー
「そうでしょうか。」
ラクスはカガリの瞳を覗き込む、まるで心の底の鏡を見るように。
「その方は、カガリさんがずっと育んできた想いを
迷惑の一言で片付けるような方ですか。」
「えっ、あ…、いや、そんな人じゃない…、
とても優しい人だから。
いや、優しすぎる程のだから尚更告白なんてっ。」
するとラクスはたおやかな微笑みを浮かべた。
「でしたら、想いを伝えるべきです。
その方はきっと、誠実に受け止めて下さいますわ。
それに、わたくしはカガリさんがずっと大切にしてきた想いを、
最後まで貫いてほしいのです。」
ラクスの声は
雨が大地に染み込むようにカガリの心に響いた。
「わたくしにとって、カガリさんは大切な方です。
そしてカガリさんの想いも。
ですから、」
ラクスは瞳をあわせて、カガリの手を取った。
「どうかその想いを閉じこめたまま
未来を決めないでください。」
瞳の澄んだ色彩に厳しさを感じる、
それはラクスの強さの現れなのかもしれない。
自分の想いに正直に歩む強さを持つラクスが眩しくて、
放たれる光はカガリには強すぎた。
カガリは遠くを見つめるように、そっと視線を外しても
ラクスの眼差しは残光のように焼き付いて離れなかった。
「今日はお一人ですか、姫。」
「その“姫”ってのやめてくれよな、くすぐったいぞ!」
と、バルドフェルドにカガリは口を尖らせた。
人生を決するお見合いは拍子抜けする程上手く進んだ。
このまま流れに身を任せるだけで年内にも結婚は決まるだろう。
そう、全て順調な筈なのに浅い沼を歩き続けるような疲労感は何処から来るのか。
柔らかな西日射す窓見つめて、カガリはため息をついた。
お開きになった後真っ直ぐに家に帰る気にもなれず、
心を落ち着かせたくてバルドフェルドのカフェに立ち寄った。
間違いなく美味しいコーヒーと絶品のスイーツがあれば気持ちも晴れると思ったのに
外の天気とは裏腹に、胸の内は疲労感の雲に覆われたようだった。
その雲が何かを隠している事も薄々分かっていた。
『本当にいいのか、カガリ。
もし気が進まないなら断ってもいいんだぞ。』
お見合いが滞り無くお開きとなり、ホテルを出てウズミと肩を並べ歩いた時そう切り出された。
今まで見た事も無いウズミの表情ーー
心配と苦み混ぜたような顔、カガリはにっこりと笑ってみせた。
『私が望んだことなんだから!
それに、お相手はお父様が良く知る方のご子息ですから何の心配もありません。
私は前向きに考えています。』
そう言い切ればウズミが何も言えなくなるのを分かった上で、カガリは言葉を選んだ。
そしてこのお見合いを良縁にしなければと心に誓ったのだ。
──そうすれば私は、初めて誰かを幸せにできる。
今まで誰とお付き合いをしても、
相手の想いに応えようと頑張っても、
結局誰も幸せにはできなかった。
心の真ん中にはいつもアスランがいたから──
だけどこのお見合いは
アスハ家にとってもお父様の会社にとっても良い話である事は間違いない。
ーーきっとお父様も、もっと沢山の人が喜んでくれる。
さらに都合の良いことに、相手方も政略結婚に理解を示していて
互いに迷惑のかからない範囲で自由に生きる合意が得られた。
『君って変わってるね。
僕が不倫をしようと愛人を作ろうと構わないって事だろ?
まぁ、僕にとってもメリットがあるし、それでいいよ。』
紫の髪をかきあげながら片側の広角だけ上げて笑う彼に、軽く鳥肌が立った。
“ただし、”と、カガリは条件を出した。
『お父様に孫の顔をみせてあげたいから、子どもは欲しいんだ。
できれば2人か3人。』
すると彼はカガリの腰を抱いて距離を縮めた。
『子作り大歓迎だよ。
今からでもいいけど…、どうする?』
カガリは震える手で彼の胸を押し返すがビクともせず、むしろ口を寄せてくる。
『そっ、こういう事は婚前にはしないっ!』
大きな声を上げると、彼は今日1番の笑顔を見せた。
『気が強そうに見えてやっぱり箱入り娘だねぇ。
そういう子を開発していくの、僕の趣味にぴったりだ。
僕たち、上手くいきそうだね。』
そう言って彼はカガリの腰なぞり上げ
瞬間、カガリは小さな悲鳴を上げ渾身の力で彼を押しのけ、
距離を取るように背を向けた時だった。
背後から抱きしめられた、羽交い締めのように。
熱く湿った息遣いが耳元で繰り返され、カガリは腕を振りほどこうと身を捩らせた時、
カガリの体は硬直した。
太股を何かが這い上がる感触──
めくれ上がったワンピースが目に入り、カガリは恐怖で目線だけ振り返れば、愉快そうに笑う彼。
腰に何かを押し付けられ、執拗に擦り上げられる。
『何も怖がる必要は無いよ、僕が全部教えてあげるからーー』
脚の付け根で親指の爪を立てられた、
痛みが走り反射的に目をつぶる、
ストッキングが裂ける音がして
耐えきれずにカガリは大声を出した──
思い出しただけで虫唾が走り、カガリは両腕を抱きしめる。
あの後、“君をからかっただけ。”と言われて解放されたけれど、言葉を鵜呑みにできなかった。
愛のない結婚生活を相手も理解してくれている、
だけど彼と一生添い遂げる事は出来るのだろうか…。
そこまで考えてカガリは両腕を力無く落とした。
ーー出来るかどうかじゃない。
頑張ろうって、決めたんだ。
「この後、アスラン君と会うのかい。」
「え…?」
突然バルドフェルドからアスランの名前が出て、カガリは無防備に顔を上げた。
その時、今にも泣きそうな顔をしていた事はバルドフェルドの胸の内に留められた。
「いや…、そんな予定は…。」
視線を泳がせて行き着いたコーヒーに目が止まり一口含んだ。
今日のコーヒーはちっとも優しく無く、苦みに容赦が無い。
「会ったらどうだい、気持ちが変わるかも。」
するとカガリは小さく笑った。
「アスランは今頃恋人と過ごしているんじゃないかな。」
バルドフェルドは驚いて目を見開くと、肩を竦めて“やれやれ”と呟くと話題を変えた。
「カガリちゃんには、好きな人はいないのかい。」
ふとラクスの姿が桜吹雪のように蘇る。
だからだろうか、カガリは素直に応えていた。
「ずっと、好きな人がいるんだ。
でも、叶っちゃいけない恋…だから。
だからもうお終いにするんだ。」
するとバルドフェルドは“ノンノン”と人差し指を左右に振った。
「終わりにするなら、ちゃんと気持ちを伝えないと!」
同じ言葉をくれた、フレイやミリィ、シン、ラクスの顔が次々に浮かんで胸を刺す。
このまま想いを心に閉じ込めれば、彼らを裏切ってしまう罪悪感がじわりと広がった。
でもーー
「だけど、その人にはもう恋人がいるから、今更告白なんて…っ。」
するとバルドフェルドはたおやかな笑みを浮かべた。
まるで極上の滑らかさを持つコーヒーのように。
「彼への想いは、何も“好きだ、愛してる”、だけじゃないだろ。
例えば、“出会えて良かった”とか、“尊敬している”だとか、色々あるんじゃないかい?
だから、伝えられる気持ちだってある筈さ。」
視界が一気に晴れた。
バルドフェルドの言葉は風のように、胸の内に立ち込めた雲を取り去った。
自分の鼓動が聞こえる、
突き動かすような音色が。
だけど、戸惑いに震える掌をカガリは握りしめた。
「伝えても…、いいのかな。」
本当はずっと伝えたかったのだと、心の底の声が聞こえた。
だけど、過去の自分の過ちが、今の彼を取り巻く状況が、自分にブレーキをかけていた、
想いを伝えてはいけないと。
彼に嫌な思いをさせるから、
叶わない恋の未来は変わらないからーー
「いいに決まってるだろう!
カガリちゃんの気持ちを、
どんな形だって、どんな言葉だって構わない、
伝えてみたらいい。」
カガリは閉ざしかけた自分の心に問いかける。
本当にアスランに伝えたい事は何だろう、と。
親友の姉として出会って、
駆け抜けた高校生活、
初めての恋と初めての失恋。
前に進むためにスカンジナビアへ渡って
勉強に仕事に没頭した日々。
そして再会した今──
青春の全てで、全力で恋をした。
涙の数も痛みの深さも、かなしみも後悔も計り知れない、
けれどその時間全てがいとおしい。
本当に伝えたいことは何──
見えたのは、素朴な光を放つありふれた言葉──
「ありがとう、バルドフェルドさん。」
カガリはカフェの扉を開けると、柔らかな西日の差す街並みを駆けだした。
駅前の広場で立ち止まり、息を整える間もなくメッセージアプリを起動する。
──どう…しよう。
アスランにあの言葉を伝えたい、
そのためにはアスランを呼び出さなきゃいけない。
今頃ラクスと大切な約束を果たしているかもしれない、
──だとしたら、何て書けばいいんだろう。
アプリを開いたまま空を見上げた時だった。
突然の着信音。
──うそ…っ!
ディスプレイに表示された名前に驚いて、震える手で通話ボタンを押した。
「もしもし、アスラン?」
鼓動がうるさいほどに鼓膜を打つのは、
駅前まで走ってきたから、
だけじゃない。
《カガリ、今、少しだけ大丈夫か?》
名前を呼ばれるだけで頬が熱くなって、
胸が締め付けられて涙を引き寄せる。
「うん、私も今アスランに連絡しようと思ってたんだ。」
同じ事を同じ時に思い描いていたこと、
ただの偶然であっても奇跡のようで
カガリは耳に充てた携帯電話を握る指先に力を込める。
《え?
何かあったのか?》
──ほら、やっぱり。
誠実に心配の色を含んだ声が聞こえて、
あまりのアスランらしさにカガリは小さく笑った。
「先にアスランの用件を聞くよ。」
と言えば、
《俺はいいから、カガリが先に。》
と言って引かなくて。
このままでは前に進めないとカガリは困ったように笑った。
アスランに時間を作ってもらう丁度良い口実を探していると、今朝ラクスと一緒に行ったカフェの袋が目に入る。
大好きなバゲットを買ってきたのを思い出して、カガリはひらめきのままアスランに告げた。
「今日は煮込み料理を作ろうと思って!
ほら、煮込み料理は一度に沢山作った方がおいしくなるだろ?」
一気に言葉が出てきて、息継ぎのタイミングを忘れてしまう位に緊張して、
「だから…、」
続く言葉が震えそうになる。
「アスランにもお裾分けできたらなって…。」
きっと今夜はラクスと過ごすのだろう。
明日にでもお裾分けを渡す程度なら、負担にも迷惑にもならないのではないか──
そのカガリの予想は覆される。
《ありがとう。
もし、カガリさえ良ければ…、
今夜その料理を一緒に食べないか。》
想定外の展開にカガリは頭が真っ白になる。
──ど、どうしようっ!
《カガリの迷惑にならなければ…だけど。》
「迷惑だなんて!!
あ、えっと、我が家は家主との約束で男子禁制だから、
アスランの部屋を借りてもいいなら。
お鍋とか食器は持って行くから。」
《良かった。
実は今外に出ていて、家に戻るのは──》
アスランのほっとしたような吐息に、
するすると決まっていく予定に、
ふわふわとした空気と高鳴る鼓動に、
全部が嬉しくてそっと瞳を閉じた。
アスランの家で待ち合わせ、
なんて不思議な約束だろう。
カガリは通話を終えると、1つ1つ食材を思い描いて歩き出した。
きっとこれがアスランと向き合う最後の時間になる、
だから、
──心を込めて作ろう。
おいしいって言ってくれたら、
その言葉を一生覚えていたいから。
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土曜日。
抜けるような青空に透明な朝日が降り注ぐ。
冬の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるような朝の筈なのに、
カガリは朝食を取る気にもならず、時間はだいぶ早いが今日の準備を始めた。
このまま家に居れば胸が詰まって動けなくなりそうだった。
鏡の前でメイクをチェックして、カガリは無意識にせり上がるため息を飲み込んだ。
自分で決めた道を最後まで歩き続ける、
今日が最初の1歩なのだから
ため息なんてついている場合ではない。
フレイからのアドバイスの通り、
アイシャドウはベージュをベースにほんのりとピンクを入れ、
チークはほんわりと丸く、ルージュは王道のピンクベージュ。
ここでフレイであればネイルも抜かりないのだろうがカガリは整えるだけに留めた。
アクセサリーは一粒パールの控えめなネックレスのみ。
白いワンピースを着た自分を見て、
──まるで白装束みたいだ。
と思ってしまった自分に苦笑する。
コートを片手に玄関で華奢なハイヒールに足を入れる。
12月の空気に冷えたパンプスが、ストッキング越しに伝わって鳥肌がたった。
ドアに鍵をかけながら、
あとオーブに居られる時間を数えた時だった。
隣のドアが開き、カガリは諦めていた現実をもう一度突きつけられた。
アスランの部屋のドアからラクスが出てきたのだ。
ラクスの歌うように弾んだ声から、
彼女の幸せが色づいて聞こえてくる。
───朝までずっと一緒にいたんだ…。
2人の恋は結ばれたのだろう、
“おめでとう。”と、カガリは唇に声にならない言葉をのせた。
すると、桜色の髪をゆらしてラクスが振り向いた。
「まぁ、カガリさんではありませんか!」
まるで天使が舞い降りるように軽やかに、
ラクスはカガリに近づいて両手を包んだ。
その声に反応するように、ドアからアスランが顔を出した。
部屋着に寝癖のついた髪、
気を許したアスランの姿に2人の親密さを見た気がして
カガリの胸を痛みが過ぎる。
「今日はお出かけですの?
とてもステキなワンピースですわっ。」
ラクスの無垢な興奮が伝わってきて、思わずカガリは微笑んだ。
「お昼に大切なお食事会があって。
でも落ち着かなくて、早めに家を出た所なんだ。」
「そうでしたの。
ほら、アスランも何かおっしゃって下さいなっ!
カガリさん、とても綺麗ですわ、
まるで花嫁さんのように。」
ラクスの何気ないフレーズにカガリは肩を震わせた。
アスランに視線を向ければ驚いた瞳を向けたまま黙っている。
途端に羞恥を覚えたカガリはラクスの腕を引いた。
「いいよ、ラクスっ!
私、あんまりこんな服装しないから、
コメント求められてもアスラン困るだけだしさ。」
と、カガリが笑って見せれば
ラクスは鋭い視線をアスランに突き刺した。
ラクスの以外な一面を見て、カガリは驚きつつも親しみを覚える。
「あ…、えっと、
きれい、だと思う。」
何とか絞り出されたアスランの言葉に、
カガリはラクスと顔を合わせて笑った。
「なんて美味しいサラダでしょう!」
ラクスはうっとりと両頬を包んだ。
マンション前に車を待たせていたラクスから朝食に誘われて、
世界的に有名な歌姫と来店して騒ぎにならない店として最初に老舗ホテルが浮かんだが、
そういった店は行き慣れているだろうからと
カガリは少し足を伸ばしてこの店を選んだ。
湖に続く小川の遊歩道に面したカフェは焼きたてパンと農家直送野菜が自慢の店で、
モーニングという事もあり店内はゆったりとした空気で満たされていた。
「よかった、気に入ってもらえて。
ここはお野菜はもちろん卵も新鮮で!
パンも美味しくて、ついついおかわりしちゃうんだよな。」
と、カガリが熱く語ればラクスは鈴の音のような笑みをこぼした。
春の陽射しにようにキラキラとした笑顔に、カガリは目を細める。
高校3年生の文化祭で会ったあの日のラクスは笑顔の奥に何処か儚さが感じられたが、
今目の前にしているラクスからはしなやかな強さと、光の花束のような幸せが見えるようだ。
この10年間でラクスが成し遂げた事、そして迎えた今手に入れた幸せがラクスの微笑みに表れている。
「ラクス、幸せそうだな。」
カガリの素直な言葉に、
ラクスは花開くように微笑みを浮かべた。
「はい、とても。
とても幸せです。
こうして、オーブに戻って来られたのですから。」
瞳にヨーロッパを映しているのだろうか、眼差しに時の流れを感じる。
キラの話では、ラクスは音楽家になるまではオーブに帰らないとの覚悟でパリへ旅立ったという。
夢を実現して家族と大切な人達が待つオーブへ戻ってきた感慨はどれ程のものだろう。
そして、彼女には愛する人との幸せな未来が続いていく。
「そして、今日、
わたくしは約束を果たしに行きます。
ずっと、待ってくれたあの方のために、
そして、わたくしのために。
だから幸せなのです。」
澄んだ泉のような瞳に強い意志が煌めいた。
「そっか、大切な約束なんだな。」
ラクスの言う“あの方”とはアスランの事なのだろう、
2人だけの約束を果たして、きっと未来へ歩みだすーー
今日はそんな日なんだ。
ーー私と同じ、始まりの日…か。
「でもこうして今日迎えられたのも、カガリさんのおかげです。」
「え?」
全く身に覚えの無いカガリは、思わずフォークを皿に置いた。
「わたくしが高校生の時、大切な弟を亡くしました。」
「ニコルくん…だろ。」
控えめなカガリの声に、ラクスはゆったりと頷いた。
「そうです。
ニコルを亡くして、わたくしはずっと悲しみに囚われておりました。
ですが、そんなわたくしの側にずっとアスランが居てくれました。
だからわたくしはもう一度、わたくしとして生きることが出来ました。」
文化祭で見た2人の姿が、風が吹き抜ける速さで思い起こされる。
ラクスを守ると、意志の熱を帯びたアスランの眼差しと、
寄り添うように見上げるラクス。
恋に破れて、抱えきれない想いも悲しみも後悔も全部、
ラクスとアスランの幸せに繋がっていたーー
ーーそれなら、良かった。
ーーこの恋は叶わなくて、良かったんだ。
今も胸を刺す痛み、
その深さの分だけカガリの微笑みは優しくなる。
「アスランを支えて下さったのはカガリさんだと聞きました。
本当に、ありがとうございました。」
そう言ってラクスは頭を下げ、桜色の髪が肩から滑り落ちサラサラと風がそよぐような音がした。
カガリは慌ててラクスの肩に手を置くと、
「私なんか何の力にもなってないって!
だから、顔を上げてくれ。」
するとラクスはカガリの手を包んだ。
「いいえ、カガリさんが悲しみの世界を変えてくださったのです。
アスランを、わたくしを、そしてわたくしの家族を救ってくださいました。
本当にありがとうございました。」
そんな力は自分には無かった筈だけど、
向けられた真心をカガリは受け取ることにした。
それが今できる精一杯の誠意だと思った。
出来立てのキッシュが運ばれてきて、“わぁっ。”と2人は声を上げた。
今朝はあれ程食欲が無かったのに、
ラクスと一緒にいるとフォークが進んでしまうのは何故だろう。
「良かったですわ。
今朝のカガリさん、少し元気が無いように見えましたので。」
と、控えめに睫の影を落とすラクスに、カガリは胸を締め付けられる。
ラクスは何て人の心に耳を傾ける人なのだろうと。
そして同時に思うのだ、
こんな人がアスランのパートナーで良かったと、
優しすぎるのに不器用な彼には
ラクスのような人が必要だから…。
身勝手に広がる胸の痛みを、“良かった。”という真実で飲み込む。
その拍子に、焼けるような痛みが喉を詰まらせた。
「ありがとう、でも、大丈夫だから。
ラクスと一緒に朝食がとれて良かったよ、
これから頑張らなきゃいけないから!」
と、ラクスの心配が晴れるよう笑ってみせると、
“気になっていたのですけれど…。”そう前置いてラクスは切り出した。
「今日はどういったお食事会ですの?」
遅かれ早かれ明らかになる事だからと、カガリは正直に話した。
「お見合いをするんだ、お父様の会社のご縁で。」
自分で決めた道、
その第1歩の今日。
これから踏み出す覚悟を持って家を出た。
なのに、
「本当にいいのですか。」
食後のハーブティーの湯気が揺れた。
「これが1番良いと、思ったんだ。」
「カガリさんには、
想う人はいらっしゃらないのですか。」
春のうららかな空のような瞳は偽りを許さない。
向けられた真っ直ぐな眼差しにカガリは応えた。
「いるよ、ずっと好きな人が。」
──アスランの事が、好き。
「でも、叶っちゃいけない恋なんだ。」
──これからも、ずっと。
「だから──」
──どうしても消えない恋、
それを心に閉じこめて、
新しい道へ進むんだ。
「お相手に、想いは伝えられたのですか。」
カガリは驚きに瞳を開く。
想いを伝えるなんて、もう一生無いと思っていたからだ。
「伝えるも何も…。
その人には心に決めた人がいて、結ばれて幸せになっているから。
今更私が告白したところで、迷惑かけちゃうだけだろ。」
シンは誰も傷つかないと言っていたが、どうしてもカガリには想いを伝える気にはなれなかった。
例え傷つかなかくても不要な心の波を立ててしまったら…、そう考えるとーー
「そうでしょうか。」
ラクスはカガリの瞳を覗き込む、まるで心の底の鏡を見るように。
「その方は、カガリさんがずっと育んできた想いを
迷惑の一言で片付けるような方ですか。」
「えっ、あ…、いや、そんな人じゃない…、
とても優しい人だから。
いや、優しすぎる程のだから尚更告白なんてっ。」
するとラクスはたおやかな微笑みを浮かべた。
「でしたら、想いを伝えるべきです。
その方はきっと、誠実に受け止めて下さいますわ。
それに、わたくしはカガリさんがずっと大切にしてきた想いを、
最後まで貫いてほしいのです。」
ラクスの声は
雨が大地に染み込むようにカガリの心に響いた。
「わたくしにとって、カガリさんは大切な方です。
そしてカガリさんの想いも。
ですから、」
ラクスは瞳をあわせて、カガリの手を取った。
「どうかその想いを閉じこめたまま
未来を決めないでください。」
瞳の澄んだ色彩に厳しさを感じる、
それはラクスの強さの現れなのかもしれない。
自分の想いに正直に歩む強さを持つラクスが眩しくて、
放たれる光はカガリには強すぎた。
カガリは遠くを見つめるように、そっと視線を外しても
ラクスの眼差しは残光のように焼き付いて離れなかった。
「今日はお一人ですか、姫。」
「その“姫”ってのやめてくれよな、くすぐったいぞ!」
と、バルドフェルドにカガリは口を尖らせた。
人生を決するお見合いは拍子抜けする程上手く進んだ。
このまま流れに身を任せるだけで年内にも結婚は決まるだろう。
そう、全て順調な筈なのに浅い沼を歩き続けるような疲労感は何処から来るのか。
柔らかな西日射す窓見つめて、カガリはため息をついた。
お開きになった後真っ直ぐに家に帰る気にもなれず、
心を落ち着かせたくてバルドフェルドのカフェに立ち寄った。
間違いなく美味しいコーヒーと絶品のスイーツがあれば気持ちも晴れると思ったのに
外の天気とは裏腹に、胸の内は疲労感の雲に覆われたようだった。
その雲が何かを隠している事も薄々分かっていた。
『本当にいいのか、カガリ。
もし気が進まないなら断ってもいいんだぞ。』
お見合いが滞り無くお開きとなり、ホテルを出てウズミと肩を並べ歩いた時そう切り出された。
今まで見た事も無いウズミの表情ーー
心配と苦み混ぜたような顔、カガリはにっこりと笑ってみせた。
『私が望んだことなんだから!
それに、お相手はお父様が良く知る方のご子息ですから何の心配もありません。
私は前向きに考えています。』
そう言い切ればウズミが何も言えなくなるのを分かった上で、カガリは言葉を選んだ。
そしてこのお見合いを良縁にしなければと心に誓ったのだ。
──そうすれば私は、初めて誰かを幸せにできる。
今まで誰とお付き合いをしても、
相手の想いに応えようと頑張っても、
結局誰も幸せにはできなかった。
心の真ん中にはいつもアスランがいたから──
だけどこのお見合いは
アスハ家にとってもお父様の会社にとっても良い話である事は間違いない。
ーーきっとお父様も、もっと沢山の人が喜んでくれる。
さらに都合の良いことに、相手方も政略結婚に理解を示していて
互いに迷惑のかからない範囲で自由に生きる合意が得られた。
『君って変わってるね。
僕が不倫をしようと愛人を作ろうと構わないって事だろ?
まぁ、僕にとってもメリットがあるし、それでいいよ。』
紫の髪をかきあげながら片側の広角だけ上げて笑う彼に、軽く鳥肌が立った。
“ただし、”と、カガリは条件を出した。
『お父様に孫の顔をみせてあげたいから、子どもは欲しいんだ。
できれば2人か3人。』
すると彼はカガリの腰を抱いて距離を縮めた。
『子作り大歓迎だよ。
今からでもいいけど…、どうする?』
カガリは震える手で彼の胸を押し返すがビクともせず、むしろ口を寄せてくる。
『そっ、こういう事は婚前にはしないっ!』
大きな声を上げると、彼は今日1番の笑顔を見せた。
『気が強そうに見えてやっぱり箱入り娘だねぇ。
そういう子を開発していくの、僕の趣味にぴったりだ。
僕たち、上手くいきそうだね。』
そう言って彼はカガリの腰なぞり上げ
瞬間、カガリは小さな悲鳴を上げ渾身の力で彼を押しのけ、
距離を取るように背を向けた時だった。
背後から抱きしめられた、羽交い締めのように。
熱く湿った息遣いが耳元で繰り返され、カガリは腕を振りほどこうと身を捩らせた時、
カガリの体は硬直した。
太股を何かが這い上がる感触──
めくれ上がったワンピースが目に入り、カガリは恐怖で目線だけ振り返れば、愉快そうに笑う彼。
腰に何かを押し付けられ、執拗に擦り上げられる。
『何も怖がる必要は無いよ、僕が全部教えてあげるからーー』
脚の付け根で親指の爪を立てられた、
痛みが走り反射的に目をつぶる、
ストッキングが裂ける音がして
耐えきれずにカガリは大声を出した──
思い出しただけで虫唾が走り、カガリは両腕を抱きしめる。
あの後、“君をからかっただけ。”と言われて解放されたけれど、言葉を鵜呑みにできなかった。
愛のない結婚生活を相手も理解してくれている、
だけど彼と一生添い遂げる事は出来るのだろうか…。
そこまで考えてカガリは両腕を力無く落とした。
ーー出来るかどうかじゃない。
頑張ろうって、決めたんだ。
「この後、アスラン君と会うのかい。」
「え…?」
突然バルドフェルドからアスランの名前が出て、カガリは無防備に顔を上げた。
その時、今にも泣きそうな顔をしていた事はバルドフェルドの胸の内に留められた。
「いや…、そんな予定は…。」
視線を泳がせて行き着いたコーヒーに目が止まり一口含んだ。
今日のコーヒーはちっとも優しく無く、苦みに容赦が無い。
「会ったらどうだい、気持ちが変わるかも。」
するとカガリは小さく笑った。
「アスランは今頃恋人と過ごしているんじゃないかな。」
バルドフェルドは驚いて目を見開くと、肩を竦めて“やれやれ”と呟くと話題を変えた。
「カガリちゃんには、好きな人はいないのかい。」
ふとラクスの姿が桜吹雪のように蘇る。
だからだろうか、カガリは素直に応えていた。
「ずっと、好きな人がいるんだ。
でも、叶っちゃいけない恋…だから。
だからもうお終いにするんだ。」
するとバルドフェルドは“ノンノン”と人差し指を左右に振った。
「終わりにするなら、ちゃんと気持ちを伝えないと!」
同じ言葉をくれた、フレイやミリィ、シン、ラクスの顔が次々に浮かんで胸を刺す。
このまま想いを心に閉じ込めれば、彼らを裏切ってしまう罪悪感がじわりと広がった。
でもーー
「だけど、その人にはもう恋人がいるから、今更告白なんて…っ。」
するとバルドフェルドはたおやかな笑みを浮かべた。
まるで極上の滑らかさを持つコーヒーのように。
「彼への想いは、何も“好きだ、愛してる”、だけじゃないだろ。
例えば、“出会えて良かった”とか、“尊敬している”だとか、色々あるんじゃないかい?
だから、伝えられる気持ちだってある筈さ。」
視界が一気に晴れた。
バルドフェルドの言葉は風のように、胸の内に立ち込めた雲を取り去った。
自分の鼓動が聞こえる、
突き動かすような音色が。
だけど、戸惑いに震える掌をカガリは握りしめた。
「伝えても…、いいのかな。」
本当はずっと伝えたかったのだと、心の底の声が聞こえた。
だけど、過去の自分の過ちが、今の彼を取り巻く状況が、自分にブレーキをかけていた、
想いを伝えてはいけないと。
彼に嫌な思いをさせるから、
叶わない恋の未来は変わらないからーー
「いいに決まってるだろう!
カガリちゃんの気持ちを、
どんな形だって、どんな言葉だって構わない、
伝えてみたらいい。」
カガリは閉ざしかけた自分の心に問いかける。
本当にアスランに伝えたい事は何だろう、と。
親友の姉として出会って、
駆け抜けた高校生活、
初めての恋と初めての失恋。
前に進むためにスカンジナビアへ渡って
勉強に仕事に没頭した日々。
そして再会した今──
青春の全てで、全力で恋をした。
涙の数も痛みの深さも、かなしみも後悔も計り知れない、
けれどその時間全てがいとおしい。
本当に伝えたいことは何──
見えたのは、素朴な光を放つありふれた言葉──
「ありがとう、バルドフェルドさん。」
カガリはカフェの扉を開けると、柔らかな西日の差す街並みを駆けだした。
駅前の広場で立ち止まり、息を整える間もなくメッセージアプリを起動する。
──どう…しよう。
アスランにあの言葉を伝えたい、
そのためにはアスランを呼び出さなきゃいけない。
今頃ラクスと大切な約束を果たしているかもしれない、
──だとしたら、何て書けばいいんだろう。
アプリを開いたまま空を見上げた時だった。
突然の着信音。
──うそ…っ!
ディスプレイに表示された名前に驚いて、震える手で通話ボタンを押した。
「もしもし、アスラン?」
鼓動がうるさいほどに鼓膜を打つのは、
駅前まで走ってきたから、
だけじゃない。
《カガリ、今、少しだけ大丈夫か?》
名前を呼ばれるだけで頬が熱くなって、
胸が締め付けられて涙を引き寄せる。
「うん、私も今アスランに連絡しようと思ってたんだ。」
同じ事を同じ時に思い描いていたこと、
ただの偶然であっても奇跡のようで
カガリは耳に充てた携帯電話を握る指先に力を込める。
《え?
何かあったのか?》
──ほら、やっぱり。
誠実に心配の色を含んだ声が聞こえて、
あまりのアスランらしさにカガリは小さく笑った。
「先にアスランの用件を聞くよ。」
と言えば、
《俺はいいから、カガリが先に。》
と言って引かなくて。
このままでは前に進めないとカガリは困ったように笑った。
アスランに時間を作ってもらう丁度良い口実を探していると、今朝ラクスと一緒に行ったカフェの袋が目に入る。
大好きなバゲットを買ってきたのを思い出して、カガリはひらめきのままアスランに告げた。
「今日は煮込み料理を作ろうと思って!
ほら、煮込み料理は一度に沢山作った方がおいしくなるだろ?」
一気に言葉が出てきて、息継ぎのタイミングを忘れてしまう位に緊張して、
「だから…、」
続く言葉が震えそうになる。
「アスランにもお裾分けできたらなって…。」
きっと今夜はラクスと過ごすのだろう。
明日にでもお裾分けを渡す程度なら、負担にも迷惑にもならないのではないか──
そのカガリの予想は覆される。
《ありがとう。
もし、カガリさえ良ければ…、
今夜その料理を一緒に食べないか。》
想定外の展開にカガリは頭が真っ白になる。
──ど、どうしようっ!
《カガリの迷惑にならなければ…だけど。》
「迷惑だなんて!!
あ、えっと、我が家は家主との約束で男子禁制だから、
アスランの部屋を借りてもいいなら。
お鍋とか食器は持って行くから。」
《良かった。
実は今外に出ていて、家に戻るのは──》
アスランのほっとしたような吐息に、
するすると決まっていく予定に、
ふわふわとした空気と高鳴る鼓動に、
全部が嬉しくてそっと瞳を閉じた。
アスランの家で待ち合わせ、
なんて不思議な約束だろう。
カガリは通話を終えると、1つ1つ食材を思い描いて歩き出した。
きっとこれがアスランと向き合う最後の時間になる、
だから、
──心を込めて作ろう。
おいしいって言ってくれたら、
その言葉を一生覚えていたいから。
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