[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
こんにちは。
今回はアスランとカガリのほんのり甘い時間でした(笑。
カガリがアスランの思い出に寄り添うように、ネクタイに触れます。
相手が大切に思うものを、相手が思うのと同じように大切にできることは、
とても素敵なことだと思います。
カガリであれば、それをさらっと態度に示してしまいそうで、
アスランはその辺不得意そうですね(笑。
そんな不器用なアスランだからこそ、カガリが必要なんだなと思います。
世界には沢山の事実があって、見方によって幾つもの真実があり、
真実は万華鏡のように変化します。
だからこそ、自分で真実を真実として信じなければ、
何かは真実には成りえない。
アスランのように、沢山の人の声を聴いて、何度も自分に問い返して判断するタイプは
真実を見つけ出せても、それを信じるまでに時間や力が必要です。
だからカガリが必要なんだと思います。
『カガリが言葉にするだけで、それが自分の真実になっていくように感じた。』
アスランはそんな風に感じることが、あるんじゃないかなと思います。
話は脱線しますが、だからこそアスランはJusticeの名を持つのにふさわしいのだと思います。
Justiceは正義、公正と訳されますが、判断という意味もあります。
1人だけで考え判断された“正義”は独善的、偏狭的となり、“公正”とは成りえないでしょう。
そんな“正義”が振りかざされることは、決してあってはいけない。
そうではなくて、
沢山の人の声を聴いて、何度も自分に問い返し判断することで、
“正義”と“公正”は実現するのではないでしょうか。
だからこそ、筆者はアスランこそJusticeの名にふさわしいと思います。
アスランの見つけ出した“正義”には、沢山の他者と自分自身の願いが反映されています。
正義を1人で振りかざすのではなく、
共に正義を掲げることができるのは、アスランだからだと思います。
自由を司るキラとは別の役割を担っていると筆者は思います。
さて、次回は少しだけ硬い話が入ります。
9-4 辞令交付式のDeep Ver.でアスランがDDRを提案した時のエピソードを挿入しましたが、
次回はカガリ視点です。
アスランがDDRを提案した時、カガリが何を思っていたのか、
そしてアスランを送り出す今、何を思うのか。
Deep Ver.をお読みで無い方でも理解していただけるよう
丁寧に描くつもりですので、
お時間がございましたらお読みいただければ幸いです。