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soranokizunaのカケラたちや筆者のひとりごとを さらさらと ゆらゆらと
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こんばんは、筆者です。
今回も土日ともに休日出勤ですが、無理矢理更新してみました。
えらいぞ、自分。

さて、今回はハツカネズミのお話でした(笑。

アスランがカガリのことを思い出すシーンですが、
全てSEED時代のものです。
断片的な表現のみでしたが、
皆様にどこまでお伝え出来たか心配です・・・。
こんな時、アニメだったらもっと違った表現ができるのに・・・と思います。

なんだかんだでカガリに甘えているアスランです。
アスランが心まで甘えられるのはカガリだけかな、と思います。
確かにDESTINYではザフト脱走の時に、メイリンに甘えてしまったかもしれませんが
それは手段に甘えただけで、心まで甘えた訳ではないと筆者は考えます。

瞳を閉じれば瞼に現れるカガリが眩しくて
眠れなくなってしまったり、
常夏の風のように胸の内に現れるカガリに
痛みを堪えながら想いを馳せたり。
不器用に、誠実に、カガリへ想いを寄せるアスランですが
はたしてカガリと再会することはできるのでしょうか?
想いはとどくのでしょうか?

さて、パトリックの暴走についてのエピソードですが、
アスランは自分もパトリックと同じように暴走してしまうのではないかという恐怖を
抱いたことがあるのではないでしょうか?
では、何故こわいのか。
同じ遺伝子を持っているからでしょうか、
それとも親子だからでしょうか。
それも不安要因のひとつだと思いますが、
何よりも大きな理由は“気持ちが分かってしまうから”、かなと考えます。
同じ遺伝子を持っていても、親子でも、性格が似ていても、
家族はそれぞれ別の人間だということは、アスランは理解していると思います。
亡くした哀しみも、奪われた憎しみも、止められなかった自責の念も、
言葉にできないパトリックの感情を、今のアスランなら分かってしまう、
だから怖いんじゃないでしょうか。

だとすると、パトリックの暴走は誰にでも起きることと言えます。
何故なら、哀しみも憎しみも悔やみも全て
人が当たり前に抱く感情だからです。
実際に本文中で、アスランはパトリックのように
『誰の声も聞かず哀しみと憎しみのままに突き進んでしまうのではないか』と危惧していますが
その状況はそのまま今のキラに当てはまります。
“パトリックの狂気”は誰にでも起こり、何処にでもある、
“ありふれた狂気”だったと筆者は考えます。

凶悪犯罪が起きると、人はつい犯人に“狂気”を見出そうとするそうです。
『あの人は狂っているから、こんな残忍な犯罪を犯したんだ。』
裏を返せば、『自分は狂っていないから、犯罪は犯さない。』
そう思って安心したいという心理が働くそうです。
だからこそ、SEEDの世界では戦後、
パトリックの暴走として歴史を片づけようとする力学が働くのではないかと筆者は考えます。
人々は残忍な行為の原因をパトリックの狂気に結び付け、
自分とパトリックは違う人間だとの結論に安心を覚えるのではないか。
しかし、本当の怖さはパトリックの狂気にあるのはなく、
誰もが抱く当たり前の感情だという点にあるのではないでしょうか。

なんて熱く語ってしまいましたが、
アスランがパトリックをどう受け止めるのか、
DESTINYであまり描かれなかったその点を、
この物語で丁寧に描ければと思います。

次回も引き続きアスランのお話です。
もうそろそろ捜索隊にも大きな変化が出る・・・かな?

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