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soranokizunaのカケラたちや筆者のひとりごとを さらさらと ゆらゆらと
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こんばんは。
今回は、アスランとカガリが腕枕するお話です(笑。
って違うか。

家族で過ごす時間を描きたくて、
3人で仲良く寝てもらおうと思ったのですが
そもそもベッドに横になるだけで一苦労でした(笑。
さらにアスランに腕枕させるだけでもう一苦労(笑。

家族で共に過ごすこと、
それはありふれたことかもしれません。
しかし、何気ない会話に笑い合う陽だまりのような時間を、
誰もがきっと、ずっと、夢に描いているのではないでしょうか。
子どものウィルも、
大人になったカガリも、アスランも。

はちみつ色の夢の中で、アスランとカガリは何を思うのでしょうか。
次回、ウィルが寝た後の2人のお話です。
子どもが寝た後、若い夫婦がすることと言えば・・・なんてね(笑。

アスランの誕生日が近づいてきていますが、
今回は執筆出来ないかもしれません・・・。
ここのところ休日出勤が重なっていて、日曜日もお仕事です。
うちの会社は振替休日を必ず取得しなければならないのですが
休んだ分だけ残業しなくちゃいけなくなりそうで(涙。

週1の更新だけでも続けていきたいです。

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こんばんは、筆者です。

仕事を終えて帰宅をし、ご飯を食べたら
サンデル教授の本む日々です。

第3章は「子どもを設計する親」についてのエピソードでした。

子どもは親を選べず、
親も子どもを選べない。
それでも親は子どもに無条件の愛情を注ぎ
子どもは愛情につつまれて成長していきます。

人は、授かった子どもを無条件に受容する力があります。
それは同時に、偶然によって予期せぬものが現われたとしても
それをありのままに受け入れる力が
人間には備わっていることを示しています。

サンデル教授はウィリアム・F・メイの次の言葉を引用し、その点について述べています。

子どもを贈られもの(gift)として理解するということは、子どもをそのあるがままに受け止めるということであり、われわれによる設計の対象、意思の産物、野心のための道具として受け入れることではない。・・・子どもの親であることは・・・『招かれざるものへの寛大さ』を教えてくれるのである。
(マイケル・J・サンデル『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』P49)


しかし、親が自分の望むように子どもを設計したとしたら・・・?
幼い頃から家庭教師をつけ、特殊なサプリメントを飲み、最新鋭の施設へ通い・・・
もしくは、親が望むような遺伝子を持つ精子や卵子を購入し、子どもをつくったとしたら・・・

そこには、子どもの自由に開かれた未来を狭める問題だけではなく、
もっと根本的な問題があるとサンデル教授は指摘します。
問題は、設計をおこなう親の傲慢さ、生命の神秘を支配しようとする親の衝動の中にある、と。
(引用、同上p51)
さらに、子どもを設計することで、社会は『招かれざるものへの寛容さ』
(=ありのままに受け入れることのできる心の広さ)が失われ、
設計外のものは全て排除するようになってしまう、と。

筆者はこの内容を読んで、ナチュラルを排除しようとするコーディネーターの姿や
婚姻統制やデスティニープランなど、制御と支配の政策を打ち出す姿を思い浮かべました。
SEED(特に無印かな)の中のコーディネーターには、
ありのままに受け入れる心が欠けていたのではないかと、今更ながらに思います。
(だからこそスローリーの中で、
あっさりアスランを受け入れてしまったカガリが光り、
全てを受け入れるラクスが光っていたかな、と。)

ありのままを受け入れる心が欠けていた理由は、
コーディネーターは自らの世界を全て設計したからこそ、
予期せぬもの(=招かれざるもの)が発生すると排除せずにはいられなかったのではないか、と。

そう考えると、遺伝子操作に対し私たちが抱く心の引っかかりの理由が見えてきます。
自然を当たり前に受け入れる私たちには、
遺伝子を操作することは
自然を支配し、生命の神秘さえも創造しようとするように
見えてしまうからではないでしょうか。


視点をもっと身近におろせば、
より良くなりたいと願いことは当たり前の感情で、
子どもの力を伸ばしてあげたいと願うのは、当たり前の親心です。

たとえば、
丈夫な体に育ってほしいから食材に気を配る、
音楽が好きな子だからピアノを習わせる、
運動が好きだからスポーツクラブに入れる、
将来困らないように英会話を習わせる…など。

それは日常にあふれた、ありふれた光景で、
そこには確かに愛情があります。

しかし、それが暴走し、行き過ぎてしまった感情は
実はコーディネーター創造につながっているのではないかと考えさせられました。


筆者の物語では、これからアスランとカガリに
ウィル(=子ども)を通して未来について考えさせる予定です。

子どもの幸せを願い出来る限りのことをすることと、
子どもを設計することは、
本当は紙一重よりもずっと境界線が見えないものなのではないかと、筆者は思いました。

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こんにちは、筆者です。

感性が餓えている・・・と漏らしたのはほんの数日前ですが、
今は感性がビンビンです(笑。

実は、待ちに待ったサンデル教授の新刊を手に入れることができたからです!


著者:マイケル・J・サンデル
『完全な人間を目指さなくてもよい理由
遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』
ナカニシヤ出版 

先日ブログにも書きましたが、
今年春にNHKで「ハーバード大学白熱講義」という番組がありました。
ハーバード大学で最も人気の講義はマイケル・J・サンデル教授による
「JUSTICE」という政治哲学の講義だそうで、それをNHKが独占放送したものです。
もう、講義の名前からして筆者のツボです(笑。

内容は、サンデル教授が正義の見えない現代において
「正義とは何か」、「公正であることはどいうことか」を問いかけていくもので、
大変考えさせられます。

で、そのサンデル教授の新刊が発売になりました。
内容は遺伝子操作やクローン、身体増強等の切り口から
生命倫理を論じているようです。

って、この本はGUNDAM SEEDの本じゃないのっ!!

なーんて、筆者一人で本屋で無言の絶叫をあげました(笑。
まだ第1章の冒頭部分までしか読んでいませんが、
たとえば以下のことは「正義」に反するのでしょうか。

・耳の聞こえないカップルが耳の聞こえない子どもがほしいので
 そのような遺伝子を持つ精子、卵子を売買すること
・容姿、スタイルが良く、学歴の高い人物の
 精子、卵子を売買すること
・死んだ愛猫の遺伝子でクローンを作り出すサービス

これらによって、満足や幸せを感じる人は確かに存在するのでしょう。
しかし、これらが「正義」だと言い切ることが出来ないのは
筆者だけではないはずです。

それは、SEEDの世界でナチュラルがコーディネーター対し
差別や偏見、そこまでいかなくとも煮え切らないもやもやとした感情を抱いていたことに
通じるのではないかと思います。

この本がどこまでSEEDの世界観に重なるかはわかりませんが
わくわくしながら読み進めています。

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こんばんは。

筆者はあえて申し上げましょう、
ウィル、グッジョブ!
アスランとカガリは、今夜夫婦になります(笑。

今回のエピソードの冒頭では、どうしてウィルがアスランとカガリに
「パパとママになって!」とお願いしたのか、その理由を描きました。
ウィルは血のつながった家族と共に過ごした記憶がありません。
だから養子になって、新しい家族が出来たなら
あたたかい家庭の中で「沢山お手伝いして、沢山遊んで」、
沢山甘えて、沢山愛されて。
きっとウィルの夢は新しい家族の中にあった筈です。
その夢が打ち砕かれた夜だから、
ウィルは小さな願いをアスランとカガリに打ち明けました。

まぁ、その願いがグッジョブなんですが(笑。

アスランもカガリも戸惑いながら、ウィルの願いを聴き届けました。
今夜2人は夫婦になります。
そして若い夫婦がベッドですることと言えば・・・なんてね(笑。

アスランもカガリもドッキドキのようですが、
次回も引き続きアスランとカガリがいちゃいちゃします。

この一連のエピソードについてお気づきの方もいらっしゃると思いますが、
単にアスランとカガリをいちゃいちゃさせるためだけでは無く、
実は2人にあることに気付かせるために挿入しております。
そのため、読者様におかれましては
2人をあたたかく見守っていただければと思います。

さて、10日はアスカガのイベントがあるそうですね。
かくれヲタク初心者の筆者は
そのようなイベントに参加したことがございませんが、
皆様にとって楽しい一日になるよう遠くからお祈りしております。

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こんばんは、筆者です。

感性が餓えています。

毎日の生活の中で
嬉しかったり楽しかったり、どきどきしたりスカッとしたりしています、
ちゃんと。

でも最近、
何故だか感性が鈍くなっている気がしてなりませんでした。

仕事が忙しくても、毎日自宅のパソコンを開いては
一行だけでも執筆しています。
しかし筆の進みが大変遅く、頭痛の一歩手前のように頭が重くなるような感覚さえ覚えます。

これまでは、感情のままに言葉がわいてきたのに、
今はどんなにイメージしても言葉に惹かれない。

どうしたのだろう、と考えて行き着いた答えは、
感性が餓えている、ということ。

現実の生活の中で充実していても
非現実の領域、
つまり想像力をかきたてるような、感性に触れるような経験が
不足していたように思います。

読書はいつも新書ですし、
映画やドラマ、アニメも見ていませんでした。

英語で感動するって「touchied」と表現すると、中学生の頃習いました。
心に「触れる(=touch)」という意味なのでしょうが、
ある意味本質をついているように思います。
人はものには直に触れることが出来るけど、
心には想像力が無ければ触れることができません。
だから、感動するためには想像力が必要なのではないでしょうか。

こんな風にひねくれて考えているから
感性が餓えてしまうのかもしれませんが、
今後は折を見て、感性をくすぐるような何かを求めていきたいと思います。

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